クライスト バレエ ロトスコープ
1 クライストとロマンチックバレエのイリュージョニズム
「映像化されたダンス」というテーマでダンス史を振り返るとき(最近のぼくの興味の一つがここにありまして、、、)、ロマンチックバレエが誕生した時期というのは、ひとつのエポックだったと考えられる。
この時期、人類はまだ写真という技術に出会う前(あるいはその技術の黎明期)だった。けれども、その技術なしでも、舞台上はいわば現実とは異なる現実をひとつのファンタジーとして享受しようとしていた。バレエダンサーの技巧が高度化したのは、そのファンタジーを舞台上に展開するためだったと見ることができる。ポワントは、舞台上のダンサーが人間であって人間でないことを、そう錯覚することを可能にした。バレエダンサーは、空気の精であった、少なくとも、そう見えることが求められたのである。
その意味で、舞台は現実とは異なる現実を描くイリュージョンの場であった。ダンサーたちは舞台上に妖精などのイリュージョンが出現するよう努め、観客たちはそう錯覚することに努めた。
この時期のバレエ論で、奇妙な説を唱えているものがある。クライストの「マリオネット劇場について」(1810)だ。これは彼の自死の前年に書かれたエッセイで、時期的にはまだロマンチックバレエの代表作が生まれる前ではあるが、2人の男が公園で、先ほどみたバレエ上演について批評しあうところから始まる。2人はどちらも見た上演に不満で、奇妙なのは、これだったら、バレエダンサーが踊るよりも人形が踊ったほうがよいのではないかと意気投合するのだ。
理由はいくつかあげられる。例えば、次のように、バレエダンサーの体重が問題になる。先に触れたように、重さを感じさせないこと、反重力というのが、バレエダンサーにとって目指すべきひとつの大きなイリュージョンなのだ。しかし、それは実際に重さが軽い人形の反重力性に敵うはずはない。
クライストはこう、人間(バレエダンサー)と人形を比較している。
「私たちの知っているあのG嬢がもし六十ポンド軽くなるとしたら、つまりこの程度の重さが飛躍や急旋回の際に彼女の助けになるとしたら、そのために彼女はどんな犠牲もいとわないのではないでしょうか。人形の方はまるで妖精のように、地面というものを、ただそこをさっとかすめすぎるために、あるいは一瞬の小止みによって新たに手足の動きに活をいれるためにしか、必要としないのです。ところが私たち人間の方は、その上で一呼吸つくために、あるいはダンスの緊張から立ち直るために、地面を必要としているのです。それ自体は明らかにダンスとはいえない瞬間ですし、いわば、ダンスをできるだけなくしてしまうばかりで、取り上げる気にもならない瞬間と言えるでしょう」
(クライスト「マリオネット劇場について」)
この反重力性のほか、さらにクライストは、人形は意識がない故に気取りがなく、その点において、人間に比べて優美だと言うのである。
「こうした人形が人間の踊り手よりもまさっている点は?」「人形は決して自分を飾ろうとしないという長所です。−−というのはこの飾り気はご存じの通り、魂(運動を起こす力)が、運動の重心とはどこか違うところにおかれるときに、生ずるのですからね。」(クライスト「マリオネット劇場」)
さて、ぼくは普段講義でクライストを紹介するときには、クライストはこういうけれど、実際に、彼の説に影響されて、人間の代わりに人形が踊るようになったなんてことはないわけだから、ガチンコで人間よりも人形のほうがいいというよりも、人形並の超人間的な存在になることをバレエダンサーは求められていたということなんじゃないかと話しているのだけれど、案外ガチで、人形>人間と捉える感性が勢力を増しているのが現代で、その目からクライストを読みなおすとちょっと違う景色が見えてくるのではないかと、最近思うようになってきた。
でも、その話に入る前に、
ロマンチックバレエでは、非人間的な存在が舞台上に存在していると観客が錯覚するよう、バレエダンサーが踊っていることを求めた。舞台という現実の空間がイリュージョン空間であること。三次元が二次元の場であること。例えば、『ラ・シルフィード』(1832)を見てみると、主人公の男の子の夢のなかに現れた空気の精が、舞台上で踊るなんて冒頭場面がある。このとき、三次元の場に二次元のキャラクターが出現した。そして、主人公の男の子が目を覚ます。すると、そこに気配のように、かすかだが空気の精が存在している。三次元の男の子と二次元のキャラクターが三次元の場で出会ってしまう。ここに起きているのは、次元のねじれであり、ねじれによって、出会わないはずのものたちが出会ってしまうという事態だ。
下の映像は、あまり鮮明ではないけれど、二次元のキャラクター(空気の精)を愛する男の子が、現実の世の許嫁と踊っているときに、突如、再び、空気の精が現れ、三人で踊るという、きわめて奇妙な場面である。
La Sylphide Pas de trois - YouTube
男の子にしか妖精は見えない。赤い服の許嫁は、この踊りが、三人組のものであることを知らない。けれども、男の子と観客は、この事実を知っている。
この妖精の出現はしかし、人力によるものだ。そして、その人力に錯覚を与えられたり、人力の魅力をどんな形であれ感じることが、バレエのイリュージョニズムに価値を与えてきた、と言えるだろう。その限りでは、クライストの論は、論が走り過ぎであり、人間の代わりに人形こそが優美(見るに値する動きを与えてくれるもの)なのだという論旨は、人形並になることが人間の努力目標となる、という程度のこととして受け止めるべきと理解しておくことがよいのだろう。しかし、そうではない、と考える感性が、特別耽美趣味的な特殊な志向ではない、オタク的な感性のなかから出てきている、ということをぼくたちは無視できない。
2 クライストの人形>人間の考えを現代の素材で考え直してみる
さて、下の二つの映像を比較して見てみよう(ぜひ同時にクリックして両者の動きの質を分析してみてください)。
ひとつはMMD、ひとつはPerfumeが踊っている。
【MMD】Lat式ミクテトリンでDream Fighter【Lat式ミクVer2 3配布動画リメイク ...
Dream Fighter-Live-Perfume - YouTube
さしあたりは、クライストが指摘した二つの点にしぼって見てみよう。「反重力」と「飾り気」である(Perfumeのダンスはバレエではなくテクノダンスだから、異なる評価基準をおいたほうがいいのかも知れないが、バレエが妖精へと変身することを目指したように、テクノダンスもまたテクノロジー的存在へと変身することを目指しており、対象は異なれど、二次元的な変身がテーマとなっている点では類似性がある)。Perfumeのダンスは、MMDに比べると重い。肉体性を感じさせる。ブレがある。よく言えばそれは躍動性であり、アイドル的愛嬌であり、ライブ性であるけれど、悪く言えば、不安定なのだ。積極的に言うことは、肉体性を積極的に解釈することであり、消極的に言うことは、肉体性を消極的に解釈することかも知れない。「飾り気」は、そもそもが肉体をテクノロジー的存在へと変容させようと努めるテクノダンスだから、かなり押さえ込まれているとしても、それでもやはり、MMDと比較をすれば、ないなんていえない。
もう一つの比較でそのあたりをもう少し検討してみよう。例えば、こんな二つで比較をしたらどうだろうか。
いいなCM JR東海 X'mas Express 深津絵里 - YouTube
【MMD】ミクが伝説のツンデレCMに挑戦してみた【Lat式ミクVer2.2】 - YouTube
ミクの演技がつたないのは事実だ(若い深津絵里の演技がつたなくぎこちないことも)。けれども、ではミクの演技が滑らかになること、あるいは人並みに心情を感じさせてくれるようになることが、初音ミクの目指すところなのだろうか。それも面白い。ミクが名女優になったときに、それこそ、役者が人間であること意味が真剣に問われることになるだろう。でも、ミクがミクであることのインパクトは今のこの状態でも十分にある。ミクは演技に人間的な要素をマイナスした状態で動く。これがいい、このほうがいいという感性がある。それはなんだろうというのが、問うべき問いとしてある。
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